アラフィフ「お一人様」気ままな人生 〜 的なBLOG

旅行日記、自分の仕事で学んだ事、お気楽人生観、その他いろいろ

カテゴリ: 人生の歩み



中学校ではバレーボール部に入ったのだが、兄貴が入っていたから入ったまでで、その後兄はすぐにバスケットボール部に移ってしまって肩透かしを食らった状態でスタートしたのだが、仲の良い友達が肩の脱臼で離脱してからすごい寂しい思いをしていたし、同級生はなんか自分が仲良くするような仲間ではなかったから正直居心地が悪かった。

いじめにもあってしまったから嫌になって途中でやめたのだが、それは正直嬉しかった。音楽に打ち込めるようになってからは学校も楽しかったし、何より自分に合う友達と付き合えるようになったのはありがたかった。

何で親はスポーツをやらせたのかが良くわからなかった。でもお陰様で運動音痴ではないのでその後スキーをやる機会ができた時にも役に立ったし、水泳が出来たのでダイビングでも苦労しなかったのはありがたかった。

しかし気の小さい性格だったのかもしれない、親としては強くなってもらいたかったのであろう。でもその当時の体育会系はビンタ、ビンタ、またビンタの世界で暴力当たり前の世界だったから本当に嫌だった。今の時期に10代で学校に通っていたらどれだけ嬉しかっただろうか。

中学校からバンドを始めて、友達の先輩からベースも借りたりして練習三昧であったが、ケチな父親が何故か楽器だけは買ってくれた。

中学校の時にはエレクトリックベースを買ってくれた。もしかしたら誕生日プレゼントだったかもしれない。

今でも覚えている。それは「Tokai」という聞いたことのない、多分最安値のブランドのベースの一つだと思う。今で考えると安くてちゃちいベースだったがとても嬉しかった。

借りた楽器は何故か傷が付いてしまっていた。自分でも覚えていないのだが、返却する時にその件は友達が何とかしてくれたのだと思う。修理代を払った記憶がない。あの時友達が立て替えてくれたのだろうか? 

とにかく練習が楽しくてずーっと弾いていたと思う。もちろん高校受験、大学受験もあったのだが、本当にずーっと弾いていたと思う。

高校も音楽系のクラブの盛んなところを選んだ。レベルとしては自分に丁度あっていたので受験は苦労した記憶がない。

都立府中高校。

まさか音楽系のクラブがビッグバンドだとは思っていなかった。ここではジャズ、フュージョンをやっていて自分は全く知らない世界だった。

あ、フュージョンは中学校の半ばから聴き始めたカシオペアというバンドにハマっていた。その頃からロックはもう練習の楽しみがなくて飽きて来ていたから丁度よいタイミングでフュージョンというジャンルの音楽を知った。

しかし、高校では入学初日のクラブの勧誘には辟易した。たまたま中学校のバレーボール部の先輩がいて、彼はハンドボール部に入っていたらしく懸命に自分を勧誘していたのだが、私はもう体育会系は懲り懲りだからと何とか振り切った記憶がある。

ビッグバンド。名前は府中高校軽音楽部である。今現在はジャズ部に変わっている。今でも存在しているのだからすごいと思った。

最近、その高校の創設からの先輩方々と繋がってなんか妙な盛り上がりを見せていますがね。(笑)

とにかくここでベース三昧でしたね。高校は楽しかった。同じ音楽仲間が増えて、色々な情報も得られたし、いろいろな経験ができた。

卒業したOBには信じられないくらい上手い人が多かった。食らいついて行こうと必死だった。本当に嬉しかった。

OBの中で良く練習を見に来てくれた人がいた。三井健二さん。

彼に連れられて12月のクリスマスイブだったかクリスマスに、他のOBの人が経営している飲み屋で演奏したのだが、それが最初に演奏でお金を貰った経験だった。いくらか貰ったかは覚えていないし、仕事の内容だって華やかなものでもなかった。それ以前に自分がそんなに曲弾けるなんて思っていなかったし「Isn't she lovely」だけは覚えさせられた、それだけだったような気がする。

これがプロとしてのデビューと言ってしまうのならば、もうキャリアは随分と長いと思う。(笑)その頃にはプロになろうと思ってはいたが、どうすればプロの世界に入れるのかなんて大学卒業後も手探りの状態でした。

三井さんには本当にお世話になった。高校生の身分な私であってもいろんな所に連れて行って貰っていろんな演奏を聞いたり、一緒にやらせて貰ったりと。私は三井さんに足を向けて眠るなんて事は出来なかった。しかし、三井さんは40歳で他界してしまった。何もお礼もしてやれなくて悔しい思いだけが残っている。

その当時には国分寺駅の北の方に「モダン」というジャズ喫茶があった。今はもうない。

そこではジャズを沢山聞いてたが、それよりも酒とタバコを覚えたのもジャズ喫茶の影響が強かったかな。

高校生で文化祭の打ち上げが国分寺駅南口のある居酒屋の2階だっからそりゃもう覚えるしかないでしょう。(笑)大学デビューなんて言葉がありましたが、私は高校でデビューしたのです。

高校ではいきなり大人になった気分でした。(笑)






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小学校の頃で近くの大きな街となると町田に行くか永山に行くかのどちらかだった。それこそ連れて行かれてどうなるかというと、おもちゃ売り場でずーっと時間を潰して両親の買い物が終わるのを待っていた。

今では信じられないことだと思うのだが、小学生でもほとんど放置されても大丈夫だった時代。今ならまずありえない事ですよね。

もう楽しくて仕方がない時間でした。

しかしながら、思い出せないのだがいつの頃か音楽に興味を持ち始めた。

覚えているのが、テレビでみた「レイジー」というバンド。カッコよかった。

どこでそうなったか分からないが、小学校5年生くらいの頃だと思う。「明星」という音楽雑誌を買っていた時期があった。付録で曲の譜面がたくさん入った本があって、それは自分のその当時のバイブルみたいな存在だったかもしれない。大学の頃まで持っていた。

その中の洋楽の部門にあった「London Town」という譜面。これはポールマッカートニーが書いて歌っていた曲である。これが好きだった。

その後、なぜか学校の友達でもあり、野球クラブの友達でもあった島田君の家に遊びに行った機会に聞かせてくれた「ビートルズ」。これがしびれまくりでした。聞いたことのない音で、もう興奮しっぱなしでした。

なぜか島田くんの家にはビートルズのアルバムがあったのか分からないのだが、多分彼の父親が好きだったのでしょう。

この出会いは大きかったです。ここから楽器を弾きたいという情熱にかられて、父親がなぜか持っていたガットギターを弾き始めた。

それでも教則本が古賀政男先生のだからもう古すぎて。(笑)だからでしょうか、明星を書い始めたのは。

小さい頃にエレクトーンを習っていたからなのか、なぜかコードの仕組みだけは知っていてすんなりと音楽を始められたのかなと思っています。これは有り難かったです。初心者でコードが分からなくて苦労している人を結構見てきたので、私がその事で苦しまなかったのは今でも親に感謝しています。

小学校5、6年の頃に学校が楽しくなってスイミングスクールに通うことも無くなってしまったのだが、なぜか知らないのだが親はどうしてもスポーツをやらせたかったらしい。兄は全然何もやっていないのになんで俺だけ?と思っていた。それは今でもなぜか分からないし、わざわざ聞く事でもないかと思っている。

でもその野球クラブで知り合った友達がいなかったらビートルズを知ることはなかったかもしれない。

・・・ことはないかな?(笑)遅かれ早かれ知っていたと思う。

なので野球もやっていたけど、ギターを父に買ってもらって弾いていた。しかしこれが弾きにくいギターで、後々自分で改造して弾きやすくした。

細かくいうと、ナットが高すぎてFのコードが弾けなかった。(笑)Fはどうしても人差し指一本で6本の弦を押さえなくてはいけなくて、ギターを始める人にはまず最初の難関であります。しかしあまりにもナットが高くていつまでもFが弾けなくて、「これはおかしいぞ」と思って自分で低めのナットを買って付け替えました。それで難なく弾けるようになりましたが。

小学校の時はそこまで入れ込んでたわけでもなかったのか、小学生でしたから遊びに野球にギターですから全てが中途半端でしたね。

でも今でも覚えているのですが、町田の駅近辺に「TAHARA」という楽器屋があって車でいつも前を通るのですが、もうそれを見るだけで結構興奮していたと思います。今ではよくある光景なのですが、店の中たくさんのギターが所狭しと並んでいるし、壁に掛かっている。

でも結局父が買ってくれたのはフォークギターだったのでちょっとガッカリだったのですけどね。

その「TAHARA」は後々の中学、高校生の頃には随分とお世話になったのですが。

小学校の頃は一人でやっていて、バンドを組んだのは中学校2年になる頃である。それまではこれを職業にしたいとは思ってなかった。

漫画も好きだったし、アニメーションも好きだった。絵を描くのもそんなに嫌いではなかった。

小学校の頃は無邪気だったが、中学校の頃には本気になり始めた。

中学校2年生の時にクラスメートがエレキギターを買ったという話を聞いて、約束もせずにある日その友達のところに訪ねて行った。

その時に何故かもう一人同じ同級生がいて二人からバンドやろうという話になった。彼ら二人はギターだったから結局自分がベースを弾く羽目になった。

これが私のベーシストとしての始まりでした。

楽器が買えないからと先輩からベースを借りて来てくれた。しばらくそれを弾いていた。でも何故か最初に左利きで弾いていた。

ポールマッカートニーの真似をしようとしていた。

しかし、全然弾けなくてしばらくたってから右利きに戻したらなんのことはない、余裕で弾けたのである。

ガックリであった。

その友達と3人と、もう一人ドラマーをその仲間は連れて来た。

その4人で始めたのだが、自分の中ではもしバンド仲間でなかったら仲良くなってなかったろうなという連中であった。特にドラマーに関しては校内暴力沙汰で警察に捕まってしまって、メンバーから外れてもらった。

で、もう一人ドラマーで連れて来たのは、どう見てもドラムなんて叩けるの?という背も小さいし細いし青白いし、正直どうなの?と思ったのだが意外と叩けた。深澤という奴だった。

最初のドラマーはヤンキーだし、人は見かけに寄らないんだなぁと思っていた頃である。

バンド名は「雷神」。(笑)どうしてそうなったか忘れた。「The God of Thunder」だったかな、英語で。最初はKissのコピーをやっていた。何故か俺が歌っていたけど。(笑)

Kiss、そして何故かオフコース、マイケルシェンカーグループとかね。やっている曲のジャンルは支離滅裂だった。好きなのを持ち込んで来てやっていたかな。

同世代でもう一つバンドがあって、そちらの方が自分は人間的には合っていたと思う。ただ知り合ったのが遅かったしクラスが違ったからという所もあった。そこのギターは上手かったし、お兄さんがバンド活動やっていたらしいから、家にもう演奏できるスベースが出来上がっていて羨ましかった。

私のバンドは練習場所もスタジオを借りるのにもお金がかかるし、一度は無料の文化センターの一室を借りてやったのだがドラムセットのベースドラムを支える棒の先で絨毯を傷つけてしまって一発で出入り禁止になった。

そんな色々な事がありながらも中学校でのバンド活動はそれなりに楽しかったし、並行してアニメーターにでもなろうかなんて思っていたけど、やはり友達に絵が上手い奴がいて叶わないと思って最後の最後にやめてしまった。

音楽一本に絞った、中学校3年生の頃でした。

何故か楽器だと自分より上手い人を見てもめげなかったのが、今日まで楽器を弾き続けてこれた理由でもあります。「練習すればそんなの超えられるよ」という根拠がない自信を持っていました。(笑)それは今でもそういう所があります。(笑)

他の事はすぐに諦めてしまっていました。

バンドはというと最後の最後にメンバーの一人が「横浜銀蝿」がやりたいと行って来て俺が有無を言わさず「やりたくない!」と言ってそのまま自然に解散してしまった。

もう高校進学の前の時期だったからちょうど良かったのですけどね。

中学最後の文化祭の時に音楽室で録画したものを流して盛り上がっていたらしいのだが(自分は忙しかったのかその様子は見れなかった)、まだそのテープ持っている人いるのかなぁ。VHSのビデオテープだけどね。(笑)

前の年まではバンドが音楽室で演奏しても良かったのだが、自分が3年の時に生演奏が廃止になってしまって、直談判して録画で流すのはOKを貰ったという経緯だったのかな。あまり覚えていないのだが。

体育館でも演奏した覚えがあるのだが、うーん、もう忘れた。

それとは別に、部活はバレーボール部だったのですけどね。(笑)そこでもいじめにあって途中で辞めましたけどね。


まぁ、それなりに面白い中学校生活でしたよ。




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幼稚園は歩いて1分、隣にあると言うくらいの場所から小学校は歩いて5分くらいかな、子供の足だと10分はかかるかもしれない場所にあって、楽しく通っていたかな?というくらいの記憶しかない。

幼稚園の最大の思い出は、幼稚園は斜面の途中に作られているから南半分が高い壁に覆われ、東側と西側は傾斜がある壁になっていて、その壁の上に沿って柵が作られている。その柵の内側が人一人が歩けるだけの幅があって、実はそれに沿って歩いたということ。今考えてみると恐ろしいことなのだけど楽しかった経験である。かなり高いところを歩いていたのだが、おやすみ中でみんな外で遊んでいる時間帯だったのか、先生に全く気づかずに渡り切った。最後の最後の場所で先生に見つかって怒られましたけどね。

小学校ではやんちゃに遊んでいたくらいしか思い出せずにいます。でも何故か覚えていないのだが、机の中が食べ物とプリントでパンパンだったこと。カビたパンが出てきたりと何故そんなことしたか覚えていないのだが、机の中はひどかった。

小学校2年生の時に黒んぼ大賞を取った。真っ黒でしたね、私。夏は外で遊びまくりでしたから。おかげで今はシミやホクロで困っていますよ。(笑)

小学校の3年生の時に小学校を移動した。近所に新しい小学校ができて私の住んでいた地域が半分にされて、片方が今まで行っていた第五小学校、私の住んでいたもう一方の半分は新しい第八小学校に移った。

とにかく子供が多すぎて第五小学校の設備では立ち行かなくなったのであろう。私の年代で確か7組くらいまであったのでそれより下の代はもっと多かったはず。





でもそこに移動してからしばらくしてからいじめにあった。

今でも覚えているのだが、給食の時になんかの形で女の子を助けたところ、からかわれたのが始まりである。

今考えてみるとそこまで酷いいじめではなかったと思う。後から聞いたのだが、もっと酷いいじめにあっていた子がいたらしい。その話はあまりにも酷くて、その子は引っ越してしまったそうだ。

それを知ったきっかけは、中学校の部活の同級生数人が笑い話として話していた。

その時は本当に腹立たしかったけど、実際その部活で彼らには辛酸を嘗めさせられたから今でも腸が煮えくり返る思いである。今でも殺してやりたいくらいな奴である。もちろん、会うこともないし殺すこともしないが。

そんなわけで3、4年の頃は悔しい思いをしていたが、逃げ場所があったのが幸いであった。

水泳である。

何故か、私の両親は私が小さい頃から何かスポーツをやらせないとと思っていた節があって、小学校2年生の最後の頃に兄の行っていたスイミングクラブに入らされた。まぁ、泳げないという悔しい思いをしていたから丁度よかったのだが。

小学校1、2年ですごい泳げるやつがいた。

今でもあるのかわからないが、小学校の水泳のクラスでは赤ー白ー黒と柔道の段位みたいなのがあり、それぞれの階級が3段階に分けられていた。赤1本、赤2本、赤3本という感じである。どれだけ泳げるかで階級が決められていて、その色の細い帯を水泳キャップに縫い付ける許可を得られるのである。

もう小学校2年生で黒1本つけていたやつがいた。

すでに体もでかいやつだった。すごいと同時に悔しい思いをしていた自分がいたのを覚えている。

そいつはその後、親の転勤で海外に行ってしまった。中学校の頃に戻ってきたが。

そんなわけで、いじめからの逃避という理由もあってスイミングクラブには楽しく通えていた。いい逃げ場だった。(後に自分が大人になって偶然にもその近所に引っ越した時には感慨深いものがあった)

しかし、その頃の経験が災いしたのか、やはり人を信じる、人を頼るということにいささか二の足を踏むことが多い。

その時の担任の先生には随分迷惑をかけたと思う。良い先生だったと思うが、まぁ先生はいじめに対してなにも出来ないのだと冷めた思いをしてはいた。





私はラッキーなことにクラス替えでいいクラスに入れた。クラス替えは必要なのだと本当に痛感した時である。この時からなのかもしれない、あまり同じ場所にいてはいけないという事を学んだのは。

いろんな意味で、いい意味でも悪い意味でも、いまだに実践している自分がおかしいのだが。(笑)

クラスの先生は私たち小学生からみたらかなりの老齢な感じの男の先生で、すごい怖そうだった。実際、厳しい先生だったが、そのクラスに入ったいじめっ子は即座にいじめることもやめて自分と仲良くしようとしていたから不思議であった。

先生の力は偉大なのか。厳しい先生だったが手を上げることはなかった。昔と違うからもうそういうことはしないと言っていた。それでも見た目だけで威厳があるからなのか、本当にクラスの雰囲気はピリッとしていて、他のクラスの先生たちの羨望の的になっていたらしい。

大好きな先生だったので、先生が永山に住んでいたのを聞いてから友達を連れて歩いて行こうと計画した。よく永山には父が買い物に連れて行ってくれたから道は知っていた。

しかしいつも車で行く場所である。無謀な計画で何時間もかかり途中でみんなが挫折しそうになったが無事着いた時には驚いていたが優しく迎えてくれた。

先生の娘さんの遺影を見て驚いたのもその時である。小学校5年の時に亡くなったらしい。丁度自分と同じ年の頃に。

その後卒業前にももう一回同じメンバーで訪問した。

私の人生の中では最高の先生だったと思う。

またその時のクラスのみんなとは仲良くなって、もう水泳にも行かなくなってしまった。一番勉強に励んだ頃でもあった。

それでもまた、勝てない相手が出てきて悔しい思いをした。勉強での話なのだが、やはり上には上がいると痛感した時期でもあった。

その先生とは大学の頃まで親交があった。先生が教頭として勤めていた第二小学校の水泳の補助のバイトで何度か伺った。



白樫先生。もう生きてはいないのでないかなぁ。お元気だといいのだが。






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東京で生まれたことは良かったのか悪かったのか分からない。

仕事でほぼ日本の47都道府県は行ったのだが、地方はいいなぁと思うことはあったのかどうかと言えば、行った時はいいなぁと思えるのだが、やはり東京出身なので都会の便利さというものに慣れてしまっている自分には地方は向かないかなと思っている。

東京は狛江で生まれた。

真冬で東京でも豪雪の日だったらしい。

後に、その日を覚えているという人生の先輩に出会った。確かにその日は豪雪だったらしい。

3歳でその狛江から引っ越してしまったので狛江での記憶はほとんどない。

覚えているのは引っ越す時に近所の友達との別れが悲しくて、引っ越す直前に会えてずーっとその子と泣いていた事と、おじさんが確か引っ越しの手伝いに来ていてその車で移動していた事だけかな。

大学の時に、その団地に住んでいるという友達がいていろいろ話を聞いた。

イー3ー304。自分が生まれて一番最初の住所である。

これだけはずーっと覚えている。人間の記憶とは不思議なものである。

それ以来、実家はずーっと稲城市にある。

よく遊んだ。周りは森、林、畑、田んぼ、自然の塊のような地域が沢山あった。だから東京にいながらほとんど地方の人と変わらないような遊び方をしている。

今の子みたいに家で遊べることなんて言ったら、ブロックを組み立てたりするくらい。ボードゲームとかあったけどそんなに遊んだ記憶がない。まず家で遊ぶことが嫌いだった。

だからかもしれないけど、今でも好奇心を旺盛なところがあって、幼稚園は家からすぐの所にあったのだが、小学校、中学校、高校、大学とどんどん家から離れている場所に行くことになり、仕舞いには最後の就学場所がニューヨークという、外へ外へという性格だったのかもしれない。

中学校は一山越えて行く場所で、高校は1時間以上かけて電車を乗り継ぎ最寄駅から歩き、大学は2時間近くかけて通っていた。小学校に至っては、子供が多かったから最初の2年は比較的近かったのに、新しい学校は子供の足で歩いて30分くらい、田んぼの中に作られてその周りも造成中だったから雨の日は泥だらけになって通っていた。

だからなのか、今でも歩く方が車に乗るより好きである。

きっと新しい場所が好きらしい。

引っ越し先の初日に三輪車に乗って遠くに行き過ぎてしまい、迷子になって交番に保護されたという話は逸話でなく本当のこと。父親は相当慌てたらしい。今でも語り草である。父親の背中におんぶされて夜に帰ったのだけは記憶に残っている。

そういう性格だから外向きの性格だったのだろう。今でも引っ越し魔で引っ越し貧乏であり、未だに一人でヨーロッパ旅行するくらいである。

好奇心、というか怖いもの知らずというのもあるのだろう。元々は臆病なのだが、歳をとったり経験が増えてくると大胆になっていくもの。

たまに危ないことにもなりそうな事もあるのだが、結局は何事もなく終わるからつまらない。

人生のネタが少ないのが残念である。(笑)

いつもニュートラルな気持ちだからなのしれない。人間とは見たいものを見る生き物と言われますが、その通りなのかなと最近は感じています。

見たいものというよりか、自分の頭に浮かぶどんな思考も現実になるのでしょうね。

何も考えてないからなぁ、俺。(笑)



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ある日、母の目を盗んで外に遊びに出た。

行き先は裏にある砂場。そこにはすでに遊んでいる近所の友達がいた。

残念なことに自分は遊ぶ道具を全く持っていなかった。

「一緒に遊ぼうよ」、私が言うと

「いいよ」

「うちに帰って道具持ってくるよ」

そう言ってまた家に戻るのだが、私の自宅は団地の三階なので階段を上がって戻るのが嫌だからいつも下から

「おか〜さ〜ん」と叫んでいた。

だから、今でも近所のおばさん達には語り草になっていて、たまに会うとその話もされるのでいつも恥ずかしい、でもほのぼのとした思いをするものである。

案の定、しばらくすると母が出て来て怒り始める。

それはそうだ、昼寝の時間を抜け出して来たので怒るはずだ。

「何やってるの!お昼寝の時間でしょ! お昼寝してから行きなさい!」

まぁ、大きな声で三階のベランダから怒らないといけないのだから母親稼業も大変である。こんなことはしょっちゅうなので近所ではだいぶ有名になっていたのではないかと思っている。

親には勝てないので、しょぼくれて昼寝しに自宅に戻るが、その後はもちろん昼寝から覚めたのが夕方近くで、約束を果たす為にまた砂場に行ってみると誰もいなかった。

というエピソードがあるくらい外遊びが好きで家から抜け出すことが多かった。母親も呆れていたと思う。

でも母親もそんなに厳しい人でなく、門限も

「外の電気がついてたら戻って来なさい」というくらいである。

一度、母が弟を産むときに祖母が家の面倒を見に来たことがあるが、とにかく私には驚かされたらしい。

学校から帰ってくるやいなや

「遊びに行ってくる!」

と玄関を上がることなくカバンを投げ捨てて出て行くのは相当ビックリしていたと母から聞かされたことがある。

小さい頃は外で遊んでいたことしかあまり記憶がない。

それでも嫌なことは覚えている。

ある日、友達二人と遊んでいてそのうちの一人の姉がベランダから呼び寄せたのでみんなでその家に向かったのだが、何故か自分だけ入れてもらえず扉の前で待たされた。

10分くらい待ったのだろうか、静かに開いてお姉さんが顔を出して

「ごめんね、〜〜〜〜」と言われてお菓子だけもらって門前払いとなった。

「ごめんね」の後の言葉は覚えていないが、すごい悔しい思いをして泣きながらお菓子を食べながら家に戻った記憶がある。

多分その経験からだと思うが、友達には強い感情は抱かないようにしてしまっている。どうせ裏切るのだろうから。そして、自分も随分と友達を作っては切ってという事を平気でするような人間になっていったのは否めない。

その記憶だけははっきり覚えている。



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