幼稚園は歩いて1分、隣にあると言うくらいの場所から小学校は歩いて5分くらいかな、子供の足だと10分はかかるかもしれない場所にあって、楽しく通っていたかな?というくらいの記憶しかない。
幼稚園の最大の思い出は、幼稚園は斜面の途中に作られているから南半分が高い壁に覆われ、東側と西側は傾斜がある壁になっていて、その壁の上に沿って柵が作られている。その柵の内側が人一人が歩けるだけの幅があって、実はそれに沿って歩いたということ。今考えてみると恐ろしいことなのだけど楽しかった経験である。かなり高いところを歩いていたのだが、おやすみ中でみんな外で遊んでいる時間帯だったのか、先生に全く気づかずに渡り切った。最後の最後の場所で先生に見つかって怒られましたけどね。
小学校ではやんちゃに遊んでいたくらいしか思い出せずにいます。でも何故か覚えていないのだが、机の中が食べ物とプリントでパンパンだったこと。カビたパンが出てきたりと何故そんなことしたか覚えていないのだが、机の中はひどかった。
小学校2年生の時に黒んぼ大賞を取った。真っ黒でしたね、私。夏は外で遊びまくりでしたから。おかげで今はシミやホクロで困っていますよ。(笑)
小学校の3年生の時に小学校を移動した。近所に新しい小学校ができて私の住んでいた地域が半分にされて、片方が今まで行っていた第五小学校、私の住んでいたもう一方の半分は新しい第八小学校に移った。
とにかく子供が多すぎて第五小学校の設備では立ち行かなくなったのであろう。私の年代で確か7組くらいまであったのでそれより下の代はもっと多かったはず。
でもそこに移動してからしばらくしてからいじめにあった。
今でも覚えているのだが、給食の時になんかの形で女の子を助けたところ、からかわれたのが始まりである。
今考えてみるとそこまで酷いいじめではなかったと思う。後から聞いたのだが、もっと酷いいじめにあっていた子がいたらしい。その話はあまりにも酷くて、その子は引っ越してしまったそうだ。
それを知ったきっかけは、中学校の部活の同級生数人が笑い話として話していた。
その時は本当に腹立たしかったけど、実際その部活で彼らには辛酸を嘗めさせられたから今でも腸が煮えくり返る思いである。今でも殺してやりたいくらいな奴である。もちろん、会うこともないし殺すこともしないが。
そんなわけで3、4年の頃は悔しい思いをしていたが、逃げ場所があったのが幸いであった。
水泳である。
何故か、私の両親は私が小さい頃から何かスポーツをやらせないとと思っていた節があって、小学校2年生の最後の頃に兄の行っていたスイミングクラブに入らされた。まぁ、泳げないという悔しい思いをしていたから丁度よかったのだが。
小学校1、2年ですごい泳げるやつがいた。
今でもあるのかわからないが、小学校の水泳のクラスでは赤ー白ー黒と柔道の段位みたいなのがあり、それぞれの階級が3段階に分けられていた。赤1本、赤2本、赤3本という感じである。どれだけ泳げるかで階級が決められていて、その色の細い帯を水泳キャップに縫い付ける許可を得られるのである。
もう小学校2年生で黒1本つけていたやつがいた。
すでに体もでかいやつだった。すごいと同時に悔しい思いをしていた自分がいたのを覚えている。
そいつはその後、親の転勤で海外に行ってしまった。中学校の頃に戻ってきたが。
そんなわけで、いじめからの逃避という理由もあってスイミングクラブには楽しく通えていた。いい逃げ場だった。(後に自分が大人になって偶然にもその近所に引っ越した時には感慨深いものがあった)
しかし、その頃の経験が災いしたのか、やはり人を信じる、人を頼るということにいささか二の足を踏むことが多い。
その時の担任の先生には随分迷惑をかけたと思う。良い先生だったと思うが、まぁ先生はいじめに対してなにも出来ないのだと冷めた思いをしてはいた。
私はラッキーなことにクラス替えでいいクラスに入れた。クラス替えは必要なのだと本当に痛感した時である。この時からなのかもしれない、あまり同じ場所にいてはいけないという事を学んだのは。
いろんな意味で、いい意味でも悪い意味でも、いまだに実践している自分がおかしいのだが。(笑)
クラスの先生は私たち小学生からみたらかなりの老齢な感じの男の先生で、すごい怖そうだった。実際、厳しい先生だったが、そのクラスに入ったいじめっ子は即座にいじめることもやめて自分と仲良くしようとしていたから不思議であった。
先生の力は偉大なのか。厳しい先生だったが手を上げることはなかった。昔と違うからもうそういうことはしないと言っていた。それでも見た目だけで威厳があるからなのか、本当にクラスの雰囲気はピリッとしていて、他のクラスの先生たちの羨望の的になっていたらしい。
大好きな先生だったので、先生が永山に住んでいたのを聞いてから友達を連れて歩いて行こうと計画した。よく永山には父が買い物に連れて行ってくれたから道は知っていた。
しかしいつも車で行く場所である。無謀な計画で何時間もかかり途中でみんなが挫折しそうになったが無事着いた時には驚いていたが優しく迎えてくれた。
先生の娘さんの遺影を見て驚いたのもその時である。小学校5年の時に亡くなったらしい。丁度自分と同じ年の頃に。
その後卒業前にももう一回同じメンバーで訪問した。
私の人生の中では最高の先生だったと思う。
またその時のクラスのみんなとは仲良くなって、もう水泳にも行かなくなってしまった。一番勉強に励んだ頃でもあった。
それでもまた、勝てない相手が出てきて悔しい思いをした。勉強での話なのだが、やはり上には上がいると痛感した時期でもあった。
その先生とは大学の頃まで親交があった。先生が教頭として勤めていた第二小学校の水泳の補助のバイトで何度か伺った。
白樫先生。もう生きてはいないのでないかなぁ。お元気だといいのだが。